
戦火を乗り越えたピカソ美化学研究所は、1947(昭和22)年、兵庫県西宮市に工場を新設。
心機一転、新たなスタートを切ることになりました。
「やっと化粧品を作ることができる」、そんな想いもあったのでしょうか。常三郎は、堰を切ったように新製品の開発に着手していきます。
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当時の大ヒット商品「粉白粉」。
常三郎は、当時はまだ手に入りにくかった海外の一流化粧品を手に入れると、成分や配合率などを自社の研究室で徹底的に研究し始めました。
戦争が終わったといっても、本格的な化粧品はやはり一般的ではなく、非常に高価なものだったのです。
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そんな強い想いと地道な研究によって生まれたのが、日本発の油性クリームファンデーションでした。
これを機に常三郎は次々と化粧品を世に生み出していきます。中でも、「粉白粉」は1日1,000ダース、1カ月で25,000ダースをも販売するヒット商品となったのです。
さらに、日本人の皮膚感を研究し、日本で最初のパウダーファンデーションや、スティック状の油性ファンデーションなど、画期的な商品を次々と生み出し続けていきました。
時代も移り変わり、化粧品が百貨店や専門店に並ぶようになりました。戦後から数えること数十年、化粧品は生活必需品へとなったのです。
しかし、時代も変われば、消費者の意識も変わるもの。
それまでのように、自分のお肌に合ったものを選ぶという意識から、頻繁に宣伝を行っている会社の製品や、大手の百貨店で販売している製品を選ぶという傾向になってきたのです。
そのような消費者の意識や時代の移り変わりを垣間見る常三郎の胸中に、一つの懸念が生まれました。
「これらは、本当に安全な化粧品なのだろうか?」
化粧品が普及していく一方で、鉛害や色素の沈着といった含有成分による問題が表面化し、化粧品訴訟なども少なくはありませんでした。
化粧品を作る会社が、宣伝方法や販売展開にのみ尽力してどうする?
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常三郎の化粧品に対する想いは留まることを知りません。そして、ピカソ美化学研究所が採った行動、それこそが化粧品のOEM事業でした。
そう、コスメナチュラルズの誕生です。
コスメナチュラルズの研究ポリシーやOEMにつきましては、「自然派化粧品の研究ポリシー」、「ソリューションビジネス」をご覧ください。
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